学校放送・ICT活用! 先生応援サイト

放送教育ネットワーク

 前回、私は、現在流行している「ゆとり教育」とか「総合教育」とか教育思潮に対して、それらの教育が21世紀を生き抜く力を保障する学力を養うことができるのかという疑問を呈した。そして「いわゆる読み書き算盤」の学力をしっかり身につけさせる教育こそが、どんな時代であろうと社会を生き抜く能力ではないのかいうことを述べたつもりである。

 今回は、「ゆとり教育」とか「総合教育」と並んでの流行教育である「IT教育」「情報教育」について考えてみたい。

 現在、パソコンはかなりの数が小・中・高校・大学とあらゆる学校に数多く導入され、インターネットも整備されるなど、情報環境は急速に整いつつある。そして文部省の「情報教育」推進の方針の下、各学校でさまざまな情報教育への取り組みが盛んである。

 私の大学でも、全学生がパソコンを持ち、インターネットの接続端子も学生総数の半分が設置されており、キャンパスの中ではいつでも望むときにインターネットに接続できる環境が整っている。これらはすべて「IT教育」推進のためである。

 「IT教育」「情報教育」は、情報社会に適応していくために、パソコン、インターネットなどの情報機器を使いこなし、情報を検索し、さらに自ら情報を発信するなどの「メディアリテラシー」を養成することを目的としている。この必要性は現代社会の状況を考えたとき、だれしも否定することはできない。私が問題としたいのは、この能力が、教育メディアによって本当に養成されるのかということである。確かに、この教育によってパソコンやインターネットなどの情報機器の操作スキルは向上するだろう。しかし、それはただそれだけのことで、「メディアリテラシー」のほんの一部であるに過ぎない。

 もっとも大事なことは、情報を読み解く能力であり、価値ある情報を発信する能力である。これらの能力はそのまま国語の読み書き能力でもある。そうであるなら、教育メデイアをあえて使う理由はどこにあるのだろう。さまざまな教育メデイアを使うことが、ただ単に活字教材を使っての教育より効果的であるという証明でもあるのだろうか。

 経験的に言うのなら、多くの教師は、まったく反対に最近の子どもたちの読み書き能力、国語力の低下に苦しんでいるのではないだろうか。私は教育メディアの利用が、国語的能力の低下と結びついていると短絡的に結論しているのではない。「メディアリテラシー」を養成するためには、国語教育が重要ではないのかということを強調したいだけなのである。

 前回、中野照海先生は、
『教育のねらいは一様ではない。教育の目標は、知的能力(知識、理解、応用など)の向上や、情意(態度、価値観、習慣など)の形成や、技能の習得などを目指している。これらの達成のためには、それぞれに適した方法がある。知識の獲得のため、理解の向上のため、態度の形成のため、技能の習得のためという目標から、教育方法や授業形態が導かれる。教育メディアの利用は、その目標と密接である。さらに、教育メディアの内容や構成とも密接にかかわっている』
『現代の教育課題である「総合」、「意欲」、「自主」、「価値の形成」などは、映像のもつ情動性への期待が大きい』
『教育におけるコンピュータ利用や、インターネット利用の学習では、到達困難な情意の学習を促進する放送教育』と、放送メディアについて述べている。

 いろいろな教育メディアに一定の役割があり、その面において特定の成果をあげていることは、事実である。そして、教育メディアの中心的存在である放送の教育的役割が情意の領域にあり、放送のさまざまな教育機能の中で、情意の領域でもっともその有効性を発揮してきたことは、明確な実証はないものの、多くの実践を通して効果があることは、歴史的にみても明らかである。それは、映像という記号をメッセージ構成の中心とするメディアの特徴でもある。

 私が問題としたいのもこの情意領域の教育の意味と、映像記号を中心とする。教育メディアは、中野先生の言う知的能力の向上を目指す教育には無力なのかということである。

 情意の教育は、中野先生も『情意の領域の目標は、発展的なものがほとんどである。到達的成果とは、英語の単語が30個覚えられたとか、2次方程式が解けるなどである。他方の、発展的成果とは、英語を通して異国文化への興味を増すとか、数学が好きになるなどである。さらに、前者は「教えるもの」で、授業の直後に成果がわかるのに対して、後者は「育つもの」で、その成果は長期に渡って形成されるものである。発展的成果を目指す情意の領域の学習は、評価が難しい』と述べているように、その成果を具体的に示すことが極めて困難な領域の教育である。問題はここにあるのである。

 教育行為の評価が明確にしにくいということは、そのまま獲得する学力もあいまいになるということでもある。したがって、この学力は入学試験など人物の力を評価する尺度の中に組み込めないということにもなる。社会の中で生きる力ということは、社会の評価に耐えうる力であって、豊な人間性などというあいまいな力ではないのではないだろうか。

 教育メディアのすべてが情意的領域のみに力を発揮するメディアではない。知的能力の向上を目的として開発されたものも数多く存在する。それらのほとんどは、ドリル、チュートリアル型の学習を行うものであって、ノートと問題集と参考助言を組み合わせたようなものであり、明らかに補助教材に位置するものである。言い換えれば、鉛筆と本とノートの代わりなのである。この場合の教育メディアの有効性は、中野先生の言う到達度的成果で評価できる。

 しかし、これらのソフトがうたっている「楽しみつつ学ぶ」ということを吟味してみる必要がある。本当に遊びながら楽しみながら、学習目的を達成できるのであろうか。「遊び」は「学習」であるといわれているが、それは「遊び」そのものが学習されるのであって、嫌いな学習を「遊び」という形態にすることによって学習効果が上がるとはとても考えられない。学習者に学ぶことの意欲を植え付けることこそが重要なのではないだろうか。そのための忍苦を避けることは、むしろ教育的ではないとすら思うのである。

 

 今日、流行している情報教育は、このようメデイアを使いこなすことを目的としているわけではなく、冒頭に記したように「メディアリテラシー」の獲得にあり、具体的にはコンピュータや情報通信ネットワークの活用力を養うことにある。

 そして、教育実践として、学級のホームページを作ったり、広域の学校とネットを組んだり、学習成果の交換などが行われている。だが、学校からバッキンガム宮殿にアクセスしてエリザベス女王の日程などを知ることが、どれだけの意味があるのだろうか。また、広域の見知らぬ地域の交流が、携帯電話のメル友との交流とどこが違うのか。人間同士、クラスメートとの対話を活性化、フェイス・ツー・フェイスの交流とどちらが重要なのかを考えてみる必要はないのだろうか。

 

 実際、私は、奇妙な体験をした。それは私との直接的な問答では、ほとんど会話が成立しない学生が、メール上ではそこそこの対話ができるということである。おそらく、携帯電話で顔を見ない形の対話なら、より活発な交流ができるのであろう。これは、学生たちのコミュニケーションが携帯電話というメディアの媒介が日常化していることと無関係ではないと思われる。

 また、最近の学生たちは、活字離れが著しく本を読まなくなっている。そして、インターネットで苦労もなしに、キーワードを打ち込んだだけで、必要な資料や情報を見つけ出し、それをアレンジして、適当にコピーとはり付けを繰り返し、アレンジしてリポートにまとめるということは巧みである。図書館で多くの書物と格闘し必要な情報を見つけ出すということと、インターネットによる情報収集とのどちらが学力の養成につながるのか、情報収集に時間を費やすことは、教育的に無駄な努力なのか、考えてみる必要がある。このような事例は、数限りなく存在するであろう。

 

 放送とかインターネット、コンピュータは、現代社会にとって欠くべからざるメディアであり、すばらしい存在である。すばらしい存在であればあるほど、その影も大きい

 放送が教育に果たす役割も、本当に情意的側面に特化するべきなのか、かつて波多野先生が述べたように感性的認識から理性的認識への橋渡しはできないのか。特に、インターネットと組み合わせたとき、知的学力向上に放送は力を発揮し得ないのか、検討してみる必要があるのではないかと思うのである。

 パソコンでは便利さの中で失うものを意識する必要がある。ワープロによってどんなに漢字が書けなくなったことか、私は恐ろしいほど実感している。

 インターネットでは、何より重要なことはバーチャルな世界と実世界との差を実感させることである。仮想的空間の中でのコミュニケーンの影をしっかりとわからせなくてはならない。インターネット上の有害とまでも言わないまでも、無責任極まりない情報が氾濫していることを見ても、最重要なリテラシーは、批判的情報処理能力と言える。

 

 教育とは本来自己形成であり、学習はこのためのプロセスであるとすれば、情報教育もこの目的のために存在する。コンピュータを始めとした教育メディアはその道具に過ぎないはずである。この道具を使いこなすことが目的になってはならないのである。

 教育メディアに限らないが、あらゆる科学技術は、ある人間の願いのために生まれたものであり、それ自体に意味があるものなどないのである。私たちが教育に持つ願いを実現するために生まれてきた道具なり方法が教育メディアなのであって、目的と方法を逆転させてはならないのである。教育メデイアの世界では、この目的と方法の逆転的発想が起こりやすいことを警告しておきたい。

ページトップへ