学校放送・ICT活用! 先生応援サイト

放送教育ネットワーク

 雑誌「放送教育」が休刊し、新しく日本放送教育協会のホームページの上に、教育問題について論議をする場が開設された。この場を教育メディアのみならず、広く教育問題について討議する場になることを願って、問題提起をまずしてみたい。私がまず論議したいのは、今日の教育改革についてである。

 現在、あらゆる分野で改革が叫ばれている。教育も例外ではない。そして、すでに平成8年の第15期中央教育審議会の答申では、教育に「生きる力」をつけるために、「ゆとり」の教育への変革がうたわれている。「生きる力」とはどんな力かについて、答申は、「自分で課題を見つけ、自分で学び、自分で考え、自分で判断し、行動し、問題を解決する能力」といういわば自学自習と、自己を自律し、他人を思いやる精神を持った、健全な体力と健康を持つことであるとしている。この目的達成のために現状の教育を改革しなければならないとしている。

 そして学校教育では、具体的に、(1) 教育課程の弾力化、(2) 倫理観の育成、(3) 自然体験やボランティア活動などの体験活動の充実、(4) 横断的・総合的な指導などを実施するよう求めている。こうした流れを受けて総合的な学習の時間が設けられ、それぞれの学校で、さまざまな取り組みが行われている。ある学校では、国際理解、また他の学校では情報、環境など、その内容は多岐にわたっている。

 この答申は、いずれの項目を見ても反対する理由を見つけ出すことは困難に思われる。しかし、本当に問題はないのだろうか。私の大学での経験からみれば、教育改革が行われるたびに、入学者の基礎的学力は年々低下している。これは、大学全入の時代を迎え、私の大学には低レベルの学生しか希望しなくなったということもあるかもしれないが、志願者の調査書などを見れば、高校生として、多数派の学力を持つ平均的な生徒が入学しているのである。私たちの大学だけではなく、さまざまな調査が大学入学者の学力低下を報告しているので、疑いもなく日本の教育の質が低下しつつあることを認めないわけにはいかないであろう。低下している学力は、本当の「生きる力」に役立つ学力ではないと言うかもしれない。

 学力とは何かということについては、さまざまな意見があり、これが学力だということを定義することは難しい。しかし、学力の中に「読み、書き、算」や、これまで人間が築いてきた学問の基本的概念が含まれることを否定しないであろう。だからこそ、入学試験がこの力を合否の判定資料としているのである。今、問題にされている学力低下は、この範疇(はんちゅう)の学力であり、私が問題としたいのもこの学力である。現在の教育改革が、目的とする「生きる力」を育成するためのさまざまな教育活動も、この基本的な学力を無視しているわけではないし、この学力を前提としない限り、あらゆる教育活動は成立しないであろう。この基礎・基本的学力の低下が、教育改革と直接的な関連があるというには無理があるかもしれない。しかし、「総合的な学習」とか「ゆとりのある教育」などが進めば進むほど学力低下が進んでいることも事実である。どこかに現在の教育改革に問題があると考えないわけにはいかない。

 学力低下の要因として、いくつかのことが考えられる。そのいくつかを列挙してみよう。

1. 総合的な学習では、知識の拡散はできても、構造的な知識に収斂(しゅうれん)することは難しいのではないか。
2. 学校教育の役割が、家庭・社会環境の激しい変化から、これまでの学力を身につけることのみではすまなくなり、従来の家庭・社会の領域で担っていた「生き方」とか「躾(しつけ)」とか、社会の知恵ともいうべきことまで引き受けているのではないか。実際、現在の親たちは、学校では基礎・基本の学力が身につかないことを承知しており、その役割を学習塾に委託している。
3. 子ども主体ということを重視するあまり、あまりにも教育が子どもの興味本位になり過ぎてはいないか。シュガーコーティングされ過ぎているのではないか。子どもの興味と関心のみから教育を行ったら、子どもは糖尿病になってしまう。
4. 情報活用能力とか環境問題、異文化理解など、あまりにも現代社会からの要請に応えようとしているのではないか。このあたりに教育メディアの問題もある。

 まだまだ、この他にも多くの要因が考えられるであろう。

 このような状況は、ちょうど終戦直後の這(は)い回る経験主義から、構造主義への論争や、スプートニクショックを受けてのブルーナーの教育カリキュラム改革論などを思い出させる。

 当時、世界の最先端をいっていると自負していたアメリカの科学技術がソ連に宇宙科学の面で追い越されたことは、大きなショックをアメリカに与えた。そこから教育の改革が叫ばれ、特に科学教育の改革が喫緊(きっきん)の課題となった。これは、それまでにも生活経験を中心とした教育について問題視されていた「学力」低下の問題を顕在化することになり、科学を中心とした「知識」教育再建のためのカリキュラムの研究開発が行われた。

 それから40年余が過ぎた。アメリカの科学は見事に復活した。日本にもこの改革論議は移入され、基礎学力重視の学習指導要領の改訂が行われた。しかし、この改革は、入学競争の激化や偏差値教育の弊害等の理由から、人間性の重視という旗印の下、すぐにまた経験重視、ゆとりある教育、学習時間の短縮等の方向に向かって教育改革が走り出し、その路線上に現在の学力低下という現実が生み出されたのである。

 このことは、いくつかの社会問題を引き起こしている。

 現在、東京区部の中学校・高等学校のほとんどは、生徒の低学力に苦しんでいる。それは,教育負担に耐えられる家庭がまったく公立の教育を信用せず、私立に進学させる結果,公立にはどちらかといえば低レベルの生徒が多数を占めるようになってしまったからである。そして、進学を希望する生徒は、中学校から進学に有利な私学を選択するのである。このことは経済力による教育格差を生み,階級的社会への第一歩が始まっているとも言える。東京大学の保護者の所得階層が、他の大学よりはるかに高位であることは、幼児から教育費を子どもにかけられるという理由によることは明らかである。家庭の所得の多少が進学に深い関連を持つことは、大学卒業後の社会的地位も収入も、世襲的階級的に決定されることにつながる。半分冗談に言うのだが、「ゆとり教育」とか「総合教育」を叫んでいる人たちは、大衆の学力の向上を妨げることにより、社会の支配階級の固定化をねらう陰謀ではないかとすら、邪推したくなるのである。

 

 今日の教育改革は、正しいかもしれない。しかし、子どもたちの基礎的・基本的学力を犠牲にしてはならない、学力を保証する教育でなくてはならないと強く主張したいのである。

 総合教育で「環境問題」を取り上げることも意義があるだろう。広域交流学習も、子どもたちを活性化させることだろう。しかし、こうした学習が基礎的学力をどこまで育てられるのか疑問に思うのである。疑問というより心配といったほうが適切かもしれない。

 次回は、教育メディアの活用が目的と方法を混同していないか、それどころか手段が目的になっていないか、教育メディアの影の部分について検討してみたい。

ページトップへ